
五十七年、ひとみが中学一年の二月、主人がガンで他界しました。家の柱を亡くしたのですから悲しいことです。しかし、主人を亡くした後、一家の用は一度に私の肩にかかってきました。そのため、私は悲しんでいる暇もなく何かと忙しくなりました。
ひとみにばかり手をかけていられなっくなってしまったとき、父を亡くしたショック、また普通校に通う辛さも加わり、その上、ろう学校の幼稚部の温かく楽しい生活を思い出して、「ろう学校へ行ったらあかんの」と言って、迷ったようです。そのころの学校の様子から見て、私は誰にも相談することもなく、心を痛めつつ時が流れていきました。子供のことは親が一番よく知っているのではありませんか?
高校は、私が編み物講師をしておりますので、榛原高校家庭科を専攻しました。そのころには、理解を示して下さる友人も自然に増えていったようです。家庭科は本人も好きだったためか、作品展では賞を頂いたり、卒業時には色々な所から表彰して頂きました。「お母さん、クラスで私一人、貰ったんやで」と言っておりました。
進学か就職か、というとき、「私、働く」ときっぱり一言いました。高校の先生方も、「よい子だから、いいところに就職させてあげたい」とお骨折り下さいました。そのお一言葉、私はどんなに嬉しかったことでしょう。お陰さまで現在、勤めている南都銀行に入行することができました。今年で九年目です。よき上司や先輩、そして大勢の友人に恵まれて、ひとみの話を聞くたびに嬉しい日々が続いております。
平成五年十月、本人が、「同じ障害を持つ者と一緒になる方がいい」と言って、二十五歳で同
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